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[GDC 2013]ビル・バッジ氏が語る「Pinball Construction Set」制作の舞台裏。ゲーム制作ツールをゲームにした独創的な作品はどのように生まれたか
同作は1983年,Electronic ArtsからApple II向けにリリースされ,大ヒットしたピンボールゲーム。EAは1982年に設立された,生まれたばかりのパブリッシャであり,初期はゲーム開発者を前面に押し出すというプロモーション活動をしていたことで知られている。同社はゲーム雑誌だけでなく,音楽雑誌にも大きな広告を載せたりしており,そのためバッジ氏もまるでロックスターのように扱われ,テレビに出演するなど有名になった。初期のゲーム業界における,スターの一人と言っていい。
バッジ氏が西海岸の名門大学,カリフォルニア大学バークレー校の大学院に入ったのは,1979年で,専攻はスーパーコンピュータのアーキテクチャだった。当時のスーパーコンピュータはCray-1と呼ばれるモデルで,大学では大型コンピュータを使っていたが,端末は操作がやっかいで遅く,バッジ氏は自分のコンピュータが欲しいと思うようになったそうだ。
そこで購入したのが,Apple IIだった。このほかにも当時,さまざまな個人向けコンピュータ,つまりパソコンが発売されていたが,バッジ氏によるとApple IIはハード的にもソフト的にもシンプルで美しいものだったという。のちのMacintoshと異なり,複数の拡張スロットを備えたオープンなアーキテクチャであったため,マニュアルにはマシンのことが細かく説明されており,回路図やシステムソフトウェアのソースコードなども公開されていたという。マニュアルは手描き感覚で,親しみやすかった。ただし,値段は非常に高かったようだ。
Apple IIの内部 |
Apple IIのマニュアル |
バッジ氏が心ひかれたのはグラフィックスで,Apple IIにはハイレゾモードが用意されており,これはメインメモリにマッピングされていた。バッジ氏は,マニュアルにあった「Breakout Game」のBASICコードを打ち込み,いろいろな数値を書き換えることで,その秘密に迫っていった。当時はフロッピーディスクはなく,カセットテープにプログラムをセーブしていたが,ロードに時間がかかり,ようやく動き始めてもBreakout Gameはお話にならないほど動作が遅かったという。
ともあれ,このようにしてApple IIのわずか64KBしかないメモリ(バッジ氏は「現在のアイコンより小さい」と述べる)の詳細や,CPUであるMOS 6502のプログラミングモデルなどを学び,最初のゲームを制作したが,このときにはすでに,バッジ氏が独自に開発したグラフィックスルーチンが使われていたという。ゲームそのものは,地元のレストランで見た「Pong」のクローンだった。
できあがったゲームを,友達のつてでAppleに売りに行ったバッジ氏は,お金ではなく,そこにあったプリンターをもらったという。バッジ氏のスライドによると,Appleは現在のようなビルではなく,まだ貸しオフィスに入っており,急成長により社内は混乱状態だったらしい。とはいえ,プリンターは700ドルぐらいはしたので,いい取引だと思ったそうだ。
転機は,友達と組んで発売したゲームで7000ドルを稼いだことだ。California Pacific Computerという名前の会社から「Pinball」「Night Driver」,そして「Space War」という3本をセットにした「Bill Budge's Trilogy Games」というフロッピーディスク1枚のゲームを地元のゲームショップで販売したという。これが,バッジ氏の制作した最初のピンボールゲームになるようだが,小切手をもらったときには,信じられない思いだったという。
その後,1980年にバッジ氏はAppleに入社することになった。担当したのは,開発中のApple IIIと,次世代機のLisaだったが,結局Appleは1年で退社し,フリーのゲーム開発者に戻る。今で言えば,インディーズ開発者というところだろうか。Apple IIIは,Apple史上でも最大級の失敗作になり,Lisaもほとんど売れなかったが,バッジ氏はAppleで得たものがあるという。最大のものは,優れた人々に囲まれて仕事ができたことだそうだ。とりわけ,Apple IIをほぼ一人で開発した伝説的エンジニア,Stephen Gary Wozniak(スティーブ・ウォズニアック)氏からApple IIの秘密を聞けたのはすばらしい経験だったという。
バッジ氏は,Apple退社後に自分の会社であるBudgeCoを立ち上げ,ピンボールゲーム「Raster Blaster」を1981年にリリースする。
Raster Blasterで挑戦したのは,物理法則に則ったリアルなボールの動きであり,そのために重要なのは「Collision Detection」(衝突判定)だった。バッジ氏は,低い能力のApple IIで正確なボールの動きを再現するため,ポリゴンとは何かを学び,MOS 6805の機能であったゼロページを使って高速化を図り,メモリ配置を工夫し,さらにさまざまなテクニックを使ってRaster Blasterを作ったという。衝突判定については,結局最後はほとんど手仕事でトライ&エラーを繰り返し,眠れない夜を何日も過ごしたとのことだ。グラフィックスももちろん,すべてバッジ氏が描いている。
この努力によって,Raster Blasterは成功を収め,その次の作品として企画したのが,Pinball Construction Setだった。グラフィックスツールなども制作していたバッジ氏は,プログラミングの知識がなくても,LEGOなどの組み立て玩具のように,必要なものを並べるだけでゲームが作れるようなものはないかと考えた。そこに,Xeroxのパロ・アルト研究所が発明し,Lisaに採用され,のちにはMacintoshにも使われることになったグラフィカルユーザーインタフェースのアイデアが組み合わされて,Pinball Construction Setが生まれることになった。
改めて書くと,Pinball Construction Setは,フリッパーだけあるボードの上に,自分の好きなようにバンパーやターゲットを並べてピンボールマシンを作り上げるというゲームであり,言ってみればツールそのもので遊ぶという独創的な作品だった。
2012年のGDCではウィル・ライト氏が,Pinball Construction Setに影響を受けて初代「SimCity」を制作したと語るなど,のちのゲーム開発者にも大きな影響を与えている。今見ると「メモリ配置でミスをしている」と語るバッジ氏だが,最終的にはアセンブラで2000行ほどのゲームだったそうだ。
バッジ氏は最後に,Pinball Construction Setがうまくいった理由として,「小さなプロトタイプから,飽きることなく改善を続けたこと」「優れた人々が傍らにいたこと」「難しい問題に大胆に挑んだこと」「最適化に重点を置いたこと」,そして「面白いことをすべてまとめるために,ハードワークを重ねたこと」を挙げている。また,あまりうまくいかなかったこととして,ツールが不十分であったことや,最適化がまだ不十分であったこと,そして,コードにほとんどコメントを付けなかったことを挙げている。最後のコメント不足のせいで,移植の際は非常に苦労したそうだ。
若くしてスターとなったバッジ氏だが,続いていくつかのタイトルを制作したものの,1980年代中頃には半ば引退という形でゲーム業界を去った。その後,再びゲーム業界に復帰し,1993年に「Virtual Pinball」をメガドライブ向けにリリース。3DO,Electronic Arts,Sony Computer Entertainmentと転籍し,現在はGoogleに勤めている。そのあたりの心情にも興味を惹かれるが,残念ながら今回は語られることはなかった。
日本の我々にはあまりなじみのない人物/タイトルかも知れないが,黎明期の雰囲気がよく分かる興味深いレクチャーであったのは間違いない。
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