連載
任天堂を退職してからも,漫画にゲーム,教職と生涯現役を貫く。「スターフォックス」のデザインなどで知られる今村孝矢氏のこれまでとこれから ビデオゲームの語り部たち:第40部
任天堂,もしくは元任天堂のゲームクリエイターという言葉は,私(黒川文雄)のようなメディアコンテンツ研究家にとって魅力的な響きを持つ。そして,ゲームファンにとっても,魅力的なゲームやエンターテインメントを創る魅力あふれる人物像を想像させるだろう。
というのも,彼らはあまりメディアに登場しない。登場するとしても,「任天堂の顔」として著名な宮本 茂氏が主である。ご存じのように宮本氏は,任天堂の現在の地位を築いた人物の1人であり,著名なゲームクリエイターだ。さらに,世界的なテーマパークのアトラクション施設から,保有するキャラクターをテーマにしたフルCG映画,キャラクター・マーチャンダイジング・ビジネスまで,その影響力は,単なるゲームクリエイターの範疇を超えている。
一方で,ゲームはひとりの優秀なゲームクリエイターが開発する時代は終わり,1本のゲームを作るために,多くの人物がその人生を賭して関わっている。任天堂の場合,そうしたゲームクリエイターが何かを語ることは稀だ。ゆえに,その秘匿性が人々の想像を駆り立てているのではないかと思う。
元任天堂・岡田 智氏の独立独歩 前編 “技術的に不可能”を覆したゲーム&ウオッチ 「ビデオゲームの語り部たち」:第27部
メディアコンテンツ研究家の黒川文雄氏による連載「ビデオゲームの語り部たち」。今回は,元任天堂の岡田 智氏に登場いただく回の前編として,「光線銃SP」や「ゲーム&ウオッチ」,「ドンキーコングJR.」などにまつわるお話をうかがいました。
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- ライター:黒川文雄
- ライター:大陸新秩序
今回取材した今村氏には,任天堂を退職した頃から取材のオファーを続けてきた。当時は,退職したばかりということで,そのオファーは実現しなかった。
しかし現在,今村氏はゲームに留まらないコンテンツ・クリエイターとしてやりたかったことに邁進しており,あらためてお話をうかがえることになったのだ。今村氏の過去,現在,未来を紹介しよう。
スゴロクや野球盤を作って遊んでいた少年時代
今村氏は1966年4月に,奈良県の北葛城郡にて生まれた。父親は漫画家で,主に4コマ漫画や新聞の挿絵などを手がけており,大阪府の心斎橋に事務所を構えて毎日通っていたという。
宝塚の小学校で最初に付いたあだ名は,「オリバー君」だった。オリバー君は当時,“チンパンジーと人間の中間にあたる未知の生物”といった触れ込みで,テレビ番組などを通じて流行っていたチンパンジーである。
「全然違う環境から来た,山猿みたいに映ったんでしょうね(笑)。5年生に上がったとき,ちょうど日本に帰ってきた帰国子女と仲よくなったんですけど,その子のお父さんは商社マン。それくらい世界が違った。たぶん,皆から見たら,夏休みの読書感想文で読んだ本に出てくるような田舎から来た感じだったんだと思います」
そんな背景もあって,当時の今村氏は友達が少なく,もっぱら弟と遊んでいたそうだ。
「絵を描くのが好きだったんですけど,ただ描いていたわけじゃないんです。段ボールでスゴロクを作って,コマやら土台やらを装飾するために絵を描くのが好きっていう」
そうした遊びの中で,野球盤を作った思い出もある。
「段ボールに2つ穴を開けて,ゴムで動くバットを作って,坂をボールが転がるようにして,ベースがあって観客もいて……みたいなことを結構やってたんですよ。その頃から,ゲームの開発をしてたんです。
ただ弟は僕と違って,わりと大人にいい顔をするタイプで勉強もできる。絵にも興味がなかった」
そんな少年時代を過ごした今村氏だったが,今でも父親から受けた体罰は強いトラウマになっているという。
「もうめちゃくちゃしばかれた。僕と親父の関係は,『美味しんぼ』の山岡士郎と海原雄山まではいかないけど,それに近いイメージ。僕は親父をずっと反面教師にして子育てしてました」
そうした経緯があるため,今村氏は父親がどのように漫画を描いていたのかはよく知らないとのこと。
「部屋に机があって,描きかけのスケッチとかペン入れした原稿をチラチラ見たり,道具を触って『こんなん使うんか』と思ったりするくらいで,ちゃんと型を習ったりとかいう記憶はほぼほぼないです。
ただ1点,『プロの世界では,たとえ出来が70点でも納期を守れ』と中学生のときに教わって。それは今でも学生にときどき言いますね」
ただ当時,子どもをしつけたり教育したりする過程で,親や教師が体罰を振るうことは珍しくなかった。今村氏は,学校での体罰もトラウマになっていると語る。
「美術の時間が自習になったんですよ。それで友達や自分の顔に絵の具を塗りたくって遊んでたら,隣の教室で授業をしていた先生が見回りに来て,その顔のまま教室の前に立たされましたね。ほかにも宿題を忘れたら,定規でビンタされたり。だから,親と先生はちょっと怖かった。
今,大学で教える立場にいて言うのもなんですけど,教師とか先生なんざ全然尊敬できなかった」
彼ら教師の振る舞いもまた,大学教授としての今村氏の反面教師となっている。ただ,3年間教壇に立ったことで理解できたこともあったそうだ。
「あんまり学生に寄り添い過ぎてもあかんねんな,なめられるなと。ある程度権威的に上からな感じで言わないと,学生は言うこと聞かへんなと感じますね」
絵を描くこととSFコンテンツにハマっていた高校時代
母親ともあまり反りが合わず,両親ともに距離を置いているという今村氏だが,高校進学時のことは感謝していると振り返る。
「僕は宝塚にある公立高校に行きたかったんですけど,偏差値が足りなくて落ちこぼれるから無理だと先生に言われたんですよ。少し偏差値の低い私立高校もいくつかあったんですけど,そっちに行くのは嫌で。落ちこぼれてもええから,公立高校に行ったほうが顔見知りもいるし。
そんなときに親が,奈良の橿原(かしはら)学院高校に美術科があるって見つけてきたんです。カリキュラムを見たら1〜2限だけ授業,昼から全部実習とかで,これやったら楽しそうやなと。もちろん絵を描くのは好きだったんで,そこを見つけてくれたことには今でも感謝しています。僕にとっては,かなりの起点になりました」
橿原学院高校の美術科に入ったことにより,今村氏の世界観は大きく変わったという。
「当時の経験から,学生は先生の言うことなんかどうせ聞いてないやろと。でも大事なこととして,たとえば僕の教えてるCGコースだと『まず絵のうまい友達見つけて仲よくなれ』と言ってます。
橿原学院高校の美術科だと,中学のクラスに1人2人いる絵のうまいやつが集まってたんで,だいたい半分くらいは絵がうまかったんですよ。それに刺激を受けたのが大きかったですね」
高校時代の今村氏は,そうした絵の上手な友人達と映画を観に行ったり,アニメの話をしたり,漫研に入って作品作りをしたりしていた。
「小学校高学年のときに『スター・ウォーズ』が来て,SFやファンタジーが完全にグローバルになったと思って。もちろん『ウルトラマン』や『仮面ライダー』も好きだった。僕は初代『ウルトラマン』と同じ1966年に生まれたんですが,観たのは再放送。当時はリアルタイムで『ウルトラマン』の最新シリーズが放映されるかたわら,毎日のように旧シリーズの再放送をやってたんです。
『怪奇大作戦』とか,『宇宙大作戦』(『スター・トレック』)も好きでしたね。
マニアックなところだとレイ・ハリーハウゼンの映画も大好きで,こんなの作りたいなってずっと思ってた。実を言うとアニメはあんまり知らなくて,『宇宙戦艦ヤマト』や『ロッキーチャック』が面白かったなと思うくらい」
とくに,フランスの漫画家・メビウスには大きな影響を受けたそうだ。
「当時はインターネットなんてないから,もう『スターログ』からメビウスとかそういった知識を得てましたね。ペラペラの雑誌で680円もしたんだけど,貴重な海外SF関連の情報が詳しく載ってたんです。ほかの雑誌は浅いんですよ」
今村氏と言えば「似顔絵が得意」というイメージも強いが,そのルーツも聞いてみた。
「似顔絵を描き始めたのは小学校高学年の頃で,最初は周囲を喜ばせたいという気持ちがあった。たとえば友達とか先生とかの容赦ない似顔絵を描いたら,みんなめっちゃ喜ぶじゃないですか。それがルーツですよ。ただ単に自己満足でニヤニヤするんじゃなくて,『アイツの顔,描いたんだけど』って周りに見てもらうんです。
それと似顔絵は,うまい・下手とか技術とか関係なく,似てる・似てないが最大の評価点。崩した絵でも似てりゃ勝ちみたいなところも好きでした」
高校時代には,似顔絵の上手な友人に大きく影響されたという。
「大森君って言うんですけど,結構写実的な似顔絵がうまかったんですよ。今はカズ・オオモリ(※)名義でディズニー公認のイラストレーターになってて。今でも付き合いがあるんですけど,高校時代はいい絵が描けたら『見てくれ』とお互いに見せ合うようなことをずっとやってました」
(※)カズ・オオモリ氏のXアカウント
ゲーム会社が美大出身者を募集していることに大きな衝撃を受ける
高校卒業後,今村氏は大阪芸術大学に入り,デザイン学科を専攻する。
「橿原学院高校から行けるいい大学と言うと,金沢美術大学か大阪芸大みたいな感じで,先輩もけっこう入ってたんです。僕,本当は映像学科に行きたかったんですよ。デッサンとか高校でさんざんやったから,そんなのより映像を学びたくて。大阪芸大のデザイン学科は就職率がよくて,親から『デザイン学科やったら行かしたる』と言われた記憶がありますね」
大阪芸大時代の今村氏は,漠然と「卒業後は玩具会社に入りたい」と考えていたそうだ。
「ボードゲームを作るのが好きだったし,『ゾイド』みたいなオリジナルデザインの玩具もやってみたいなと,フワッと思ってたんですよ」
もちろんゲームも好きだったが,仕事になるとはまったく考えていなかったと当時を振り返る。
「中学のとき『スペースインベーダー』で完全にビデオゲームに浸ってしまって。親に『塾,行くから』ってジュース代100円200円もらって,塾サボってゲームやるんですけど1〜2回で終わるじゃないですか。あと1時間くらい潰さなあかん,どうしようってなってるときに,めっちゃ金持ってる商売人の息子がいたんですよ。それで『うまいなー』『なるほどー』とか褒め殺しにして,ゲーム代を奢ってもらったり(笑)」
そのあと高校時代に登場したファミコンには,ものすごく衝撃を受けたという。
「友達の家にファミコンがあったんですけど,めっちゃ衝撃受けたの覚えてますね。そいつの家に行くのが楽しみで,『ドンキーコング』とか『ワイルドガンマン』とか遊んでました。
そんな感じだったけど,あの時代はゲームを将来の仕事にするイメージはなかった。ゲームが面白すぎて,作った人がどうこうよりも,それを攻略していかに楽しむかばっかり考えてました。たとえば『ドンキーコング』を初めて見たときは,すごい綺麗やし,ステージ変わったらゲームも全然変わるし。『これを誰が作ったんだ』ってところまで至らないから,『オレもやりたいな』っていう発想は微塵もなかったですね。」
しかし大学時代の就職活動で,KONAMIに入社した先輩がいると知り,今村氏は再び大きな衝撃を受けることに。
「『KONAMIってゲームの?』『そうか,この大学からビデオゲームの会社に行けんねや』って思ったのが最初です。ゲームは理系の人がプログラムで全部作ってるって思ってましたから。僕は遊ぶだけで,どっちかと言えば『ゲームセンターあらし』を読んで,『オレもゲームをテーマにした漫画を描こう』と(笑)。実際,中学のときに描いた記憶があります」
実際に就職活動を始めた今村氏は,KONAMIと任天堂に応募することにした。
「そう言えば任天堂ってどこやろうと思って,ファミコンソフトの説明書か何かを見たら京都って書いてあって。実は奈良や兵庫に住んでると,京都はなかなか行かないんですよ。大阪や神戸に行くので。一方KONAMIは当時,神戸のポートアイランドにあって,宝塚から通える距離だったんで,ちょっといいなと。
結局は両方とも受けたんですけど,先に採用の連絡が来たのが任天堂だったんです。僕は『メトロイド』とかもめっちゃ好きでしたけど,より『グラディウス』とかに傾倒してたし,『グラディウス』のボスを描いてみたいという具体的なイメージがあったので,KONAMIのほうがいいかなと思ってました。
でも任天堂に受かったと言ったら,母親が『絶対,任天堂にしとけ』と。母親はゲームにまったく興味がないので,会社の歴史とか当時の株価とかを見ていたんです。とくにファミコンブームの直後で株価も上がっていて,雑誌でも『任天堂の強さの秘密』とか『社員はこんなに稼いでる』とかゴシップ的に扱われていたんですよね」
母親の意見もそうだが,後輩が当時の宮本氏の実績を知っていたことも,今村氏が任天堂を選ぶ後押しとなった。
「任天堂に受かる少し前に,『スーパーマリオブラザーズ3』のプロモーションで,雑誌に宮本さんのインタビューが載ったんですよ。それを読んだ後輩が,僕に『夢工場ドキドキパニック』を薦めてきたんです。『何かテレビ局が出したゲームやろ? 面白くなさそうやな』とか言ったら,『いやいや,これは任天堂の宮本チームが作ったゲームでめちゃくちゃ面白いんですよ』と。そうなんやと思って調べて,『ゼルダの伝説』も『スーパーマリオブラザーズ』も全部宮本さんが作ったんかと知ったんです」
ちなみに,今村氏が任天堂の入社試験で行ったプレゼンテーションには,宮本氏も立ち会っていたそうだ。
「面接とは別に,自分の作品をプレゼンする機会があったんです。僕は学校で作った作品と,それまでに描いていたルーツ的な漫画を全部持っていったんです。そしたら宮本さんが漫画をかなり丁寧に見てくれて。僕もインタビューを読んでいたから,『この人,宮本さんや』って。好きな映画やゲームを聞かれたりもしたんですけど,宮本さんの前で『マリオ3』と答えるのは恥ずかしいから,『メトロイド』を挙げました(笑)。でも僕,めっちゃ『メトロイド』好きだったんですよ」
宮本氏のもとでゲーム開発に取り組んだ任天堂時代
1989年,今村氏は任天堂に入社する。
「ちょうど任天堂100周年の年に入社したんです。当時は社会全体がすごくバブリーだったので,企業は就職が決まった学生を逃がさないように旅行に連れて行ったりパーティーをやったりしていたんですが,任天堂は何もなし(笑)。100周年のお祝いもなくて,絶対に浮かれない会社でした」
そうした堅実な任天堂の社風には,当時の代表取締役社長だった山内 溥氏の思想が色濃く反映されているのではないかと,今村氏は語る。
「『得意冷然、失意泰然』ですね。どんなに業績がよくても,山内さんは社員に向けて厳しい言葉をかけてました。それは山内さんがいろいろ事業を失敗してきたからということももちろんあるんですけど,玩具やゲームは所詮水物商売ですから,普通に考えてもそれが正しいんですよね。山内さんの言う説得力のある強い言葉を聞いて,『やっぱりいいもの,面白いものを作らないと売れへんよな』ってあらためて思うわけです」
今村氏は入社後,情報開発本部に配属されることになった。
「最初に辞令が出たとき,『え,情報開発? やったー,宮本さんの部署やな!』って,すごく嬉しかったですね。最初はファミコン用のCADでドット絵の練習みたいなことをやってました。
次にスーパーファミコン用のドット絵を描くことになったんですけど,キャラクターに透明を入れて16色使えるんですよね。そのとき,『なるほど,美大出身の子も需要あるな』って思いました。やっぱり16色使って16×32ドットの絵を描くとなったら,そこそこ分かってる人じゃないと描けないなと」
以降,今村氏は宮本氏のもとでゲーム開発に携わることとなる。
「のちのち岩田さん(元任天堂 代表取締役社長 岩田 聡氏)がブルーオーシャンとかレッドオーシャンとか言い出す前から,宮本さんは『人と違うことやったろ』という感じでしたね。
たとえば『スターフォックス』のキャラクターデザインのとき,僕は『F-ZERO』の流れで考えてたんですけど,宮本さんは『動物にしよう』って言い出したんです。当時の僕は,あんまり動物を描いたことなかったんだけど」
少々疑問を抱いていた今村氏だったが,「スターフォックス」のキャラクターデザインは動物をモチーフに進められた。
「スターフォックス」は,いわゆるケモナーの間で,動物キャラクターを使ったゲームのパイオニアとされることもあるそうだ。
「ゲームの世界ではそうかもしれませんけど,アニメや映像の世界だったらケモナージャンルは宮崎 駿監督の『名探偵ホームズ』や『紅の豚』,タツノコプロの『みなしごハッチ』,あとは『ガンバの大冒険』なんかがすでにあって,確立されてましたからね。だから僕もそこまで違和感がなくて,SFと組み合わせたら面白いかなって。
結果的に,ポリゴンの世界観と動物のキャラっていうミスマッチな感じが,任天堂お得意の『既存のものを組み合わせて,違うものを作る』みたいなところにつながったのかなってよく思います」
そんな今村氏は,自身を「作りたいものを作る」タイプのゲームクリエイターだと捉えているとのこと。
「僕が作ったゲームに関しては,まず自分が作りたいものを作って,そのうえで周りが『もっとああしよう,こうしよう』とやってくれていたのかな。『多くの人を笑顔にしたい』みたいな気持ちはあまりない,わがまま系のクリエイターです。もちろん,極端なバイオレンスはNGといったラインはありましたけど」
その一方で,ニンテンドーDSの登場によりゲーム人口が拡大した時代には,自身の出番があまりなかったとも語る。
「僕はゲームゲームしたものを作ってきたので,脳トレやスポーツとかのカジュアルでユーザーを増やすこととあんまり相性がよくなかったんです」
「親父ゲーマーって言われるかもしれませんが,遊ぶ側の想像力もある程度加味した作りのゲームにしたいというのは,今でもありますね。遊んでいてすごい映像の波に飲み込まれてボタンを押して……みたいなのよりは,ある程度想像力を刺激するようなゲームにしたい。ただ,それはどういうコンテンツを作るかによるのかな。本当にリアルで誰もが驚くようなVRゲームだったら,それはそれで僕も興味あるし。
ゲームってハードウェア的にも表現的にも,この30年で急激に進化しすぎたと感じるんですよ。その一方で,PS5の綺麗なグラフィックスを喜んでいる自分がいるのも確かなんですけど」
生涯現役をポリシーに,大学教授として,クリエイターとして活動を続けていく
2021年1月20日,今村氏は任天堂を退社。2021年4月より,大阪国際工科専門職大学で教壇に立つこととなった。
「昔から10年単位でいろいろ考えてたんです。30代ではゲーム何本作るとか。なぜかと言うと,ゲーム1本作るのに2〜3年かかりますよね。タイトルによっては5〜6年かかりますから,10年で2本ですよ。そういう状況を踏まえて,50歳になったとき『ちょと待てよ,会社もどんどん若い人に任せるようになってるから,自分の作りたいものを作る機会ってどんどん減るな』と思ったんです。
それでどうすべきかと考えていたら,55歳になる少し前に,知り合いから『モード学園が大阪国際工科専門職大学を開校するので,教員をやってみませんか』と。それで大学側に話を聞いてみたら,実務科の教員としてゲームを作り,それを学生にフィードバックするのも大歓迎だということだったので,めちゃくちゃいいやんと思って。だって普通に転職したとして,副業でなかなかゲーム作れないじゃないですか。独立してフリーランスっていうのも不安があるし。でも大学なら,学生に教えるかたわらゲーム作ったり漫画描いたりできるし,研究室も用意してもらえるし」
幼少期に植え付けられた教師へのトラウマは,教職に就くにあたって影響しなかったのだろうか。
「すごい幼稚な話なんですけど,僕は『インディ・ジョーンズ』が大好きなんです。インディって冒険者であると同時に考古学の教授だから,ああいう感じになれるといいなと思った。ちょっと面倒くさそうな感じで教授をしながら,冒険をしてる。それがカッコいいなって」
大学は夏休みなど長期休暇の時期が例年決まっているため,ゲーム関連の仕事とも相性がいいという。
大学の仕事として海外のイベントに行くこともあり,2024年は5月にモロッコの「Morocco Gaming Expo 2024」,11月にクウェートの「Games & Media Entertainment Expo 2024」に参加したそうだ。
そうした大学での活動と並行して,今村氏は2022年11月に漫画「OMEGA 6」をフランスにて,2024年7月にゲーム「OMEGA 6 THE TRIANGLE STARS」を相次いでリリースしている。
「漫画は任天堂を辞める前からアイデアを考えていて,大学に勤めながら描いたんです。知り合いだったゲームライターでOmaké Books代表のフロラン(・ゴルジュ氏)が,漫画が完成したらぜひフランスで出版したいと言ってくれたので,2年間必死に描いて」
実際,「OMEGA 6」は好評とのことだ。
「漫画は,ゲームにもデジタル収録されてるんで,面白いと言ってもらえてます。漫画もゲームもレトロフューチャー風を意識したんだけど,それは新しいSFの概念に勝てないからです。自分が持ってるセンスより古いところを狙ったらイケるかなって感じで作ったんですよ。レトロってキーワードも使いやすいし」
「松谷さんはゲーム会社の代表でもあって,昔からの知り合いで『いつか一緒にゲームを作りましょうよ』と冗談半分で言っていたんです。ちょうど松谷さんが直近に担当したアドベンチャーゲームのフォーマットがあって,『いい機会だからやってみませんか』と声をかけてくださったんですね。僕もアドベンチャーゲームはやったことないし,いろいろ話を考えられるしで面白そうやなと。
それで,僕の漫画を原作にしないかという話になって,『まだフランスでしか出てないけど,ホンマにええの?』と聞いたら,世界観や話があるだけでも作りやすいということだったんで,じゃあやりましょうと。僕は絵だけ描いて,あとは上がってきたゲームを触ってアドバイスしてました。絵は99%僕がやったと言ってもいい。僕自身,ずっとSwitch向けのゲーム開発に関わりたいと思ってたから,今回は嬉しかったですね」
ゲームに関しては,2025年2月にリリースされる海外版がヒットしてほしいと考えているそうだ。
「海外で売れてほしいですね。過去に担当したタイトルでは,海外の支持が強いので期待しています。SteamでPC版の配信も始まりますし。昔はゲームを作っても『え,こんな数しか作らないんですか?』ってなるときもあったし,逆に作りすぎて叩き売りされちゃうこともあった。今はデジタル配信があるので,本当にありがたい時代ですよね」
ちなみに,海外での今村氏の名前で人が集まった例を挙げると,モロッコで開催したサイン会には1000人を超える行列ができたとのこと。そのなかでも,やはり「スターフォックス」のファンは多かったという。
一方で,「OMEGA 6 THE TRIANGLE STARS」の展開にあたり,アドベンチャーゲームのプロモーションには,難しさを感じるところもあるようだ。
「アドベンチャーゲームは地味なので,ある程度文字を読み進めないと分からないとことがあるですよね。アクションゲームだと,何が楽しいのかすぐ分かるじゃないですか。ゲームは『作ればOK』ではない。その意味では,以前はいかに恵まれた環境でゲームを作ってきたかを実感しました」
今村氏が,今後どのような活動に取り組んでいくつもりなのかも聞いてみた。
「僕は生涯現役がポリシーなので,大学で学生に教えながらゲームを作ったり,絵を描いたりしていきます。キャラクターデザインを依頼されることもありますね。最近だと,一般社団法人 日本ゲーム展示協会(JAGE)のイメージキャラをデザインしました」
大阪国際工科専門職大学では,具体的にどんな活動をしていくのだろうか。
「主にCGコースの3〜4年生向けに,ショートムービーを作る授業をやっています。1〜2年生で学んだ技術的な知識を使って,映像作り,ネタ作り的なことを指導するわけですね。
もう1つは3年生通年で,企業さんからお題をいただいてデジタルコンテンツを作るという授業もやっています。2024年度はカプコンさんに協力していただいて,開発の方が実際に大学に来て出したお題に対して,学生がチームでデジタルコンテンツを作っています。同じように,大阪城の宣伝用デジタルコンテンツにも取り組んでいます」
教壇に立つ立場の今村氏に,「ゲームのよい側面,悪い側面」というテーマについて,どのように考えているかについても聞いてみた。
「中学のとき,塾サボって『スペースインベーダー』やってたときから変わらないですね。悪い側面には目をつぶってます(笑)。この間もほかの大学で講演したんですけど,ゲームは『熱中すると際限なくやれてしまう』部分が一番よくないんです。映画だったら2時間で終わるじゃないですか。あとはゲームを一括りで語る時代じゃなくなってるんですよ。FPSも脳トレもゲームだけど,同じものと括れないくらい細分化してますよね」
「中東全体が,ゲームを石油の次の産業にしたいと考えているんですよね。ただイスラム圏では,まだまだゲームは害悪だと見なされており,反対派も多い。そうなると,最初にあるべきはレーティングの制定ですよね。世界中どこへ行っても,ゲームがいいか悪いかみたいな議論はずっと平行線のままじゃないかなって。『ゲームの役割とは』とか言われてもね,本当に難しいです」
任天堂を退職してからも,クリエイターとして活動しながら,教壇で次世代のクリエイターたちに指導を行う今村氏。今回はその幼少期から,今後の活動まで語っていただいた。これからも生涯現役として,さまざまな側面からゲーム業界に関わり続けてくれることだろう。
「OMEGA 6 THE TRIANGLE STARS」公式サイト
著者紹介:黒川文雄
1960年東京都生まれ。音楽や映画・映像ビジネスのほか,セガ,コナミデジタルエンタテインメント,ブシロードといった企業でゲームビジネスに携わる。
現在はジェミニエンタテインメント代表取締役と黒川メディアコンテンツ研究所・所長を務め,メディアアコンテンツ研究家としても活動し,エンタテインメント系勉強会の黒川塾を主宰。
プロデュース作品に「ANA747 FOREVER」「ATARI GAME OVER」(映像)「アルテイル」(オンラインゲーム),大手パブリッシャーとの協業コンテンツ等多数。オンラインサロン黒川塾も開設
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OMEGA 6 THE TRIANGLE STARS
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