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印刷2007/11/21 16:37

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テキスト,映像,そしてプレイ? 第22回:『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』→原作モノ

 

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『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
著者:フィリップ・K・ディック
訳者:浅倉久志
版元:早川書房
発行:1977年3月
価格:672円(税込)
ISBN:978-4150102296

 

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(以下便宜上,『アンドロ羊』)は,アメリカの異色SF作家,フィリップ・K・ディック(以下,ディック)が書いた,SF界におけるマイルストーンの一つである。ことSFというジャンルは,マイルストーンやらターニングポイントやらパイオニアが宿命的に多い(割にマスターピースは少ない気がするが,きっと気のせい)が,なかでも『アンドロ羊』は非常に特異な位置に立つ。それは,「映画と最も幸せな結婚をした文学作品」であるということだ。

 『アンドロ羊』を下敷きにした映画「ブレードランナー」は「エイリアン」と並ぶリドリー・スコット監督の代表作となり,SF映画における不滅かつカルトな金字塔の一つとなった。実際,世間に理解されて以降「ブレードランナー」の表現手法は,サイバーパンク,ひいてはSF的近未来を映像化するに当たってのデファクト・スタンダードとなりおおせた。
 極めて多くの近未来SF作品がブレードランナー的映像を作っているが,それらがいちいちブレードランナー的といわれないのは,「ブレードランナー」の影響を受けていない作品がほとんど存在しないからだ。「ブレードランナー」,そして必然的に『アンドロ羊』は古典や原典を越えて,空気のような存在となったのだ。

 ところでその『アンドロ羊』と「ブレードランナー」だが,話の筋は驚くくらい完全に別モノである。舞台こそ近未来の地球で,人間社会に潜んでいるアンドロイドを狩り出す刑事デッカードが,任務遂行のため七転八倒するというメイン・ギミックは共通しているが,デッカードの物語における立場,周辺の人間関係,社会的背景,生活に密着したテクノロジーといったものは,大きく違っている。

 例えば『アンドロ羊』においては,そのタイトルどおり電気羊/electric sheep(余談だがこの語は,SF史に残る名訳だと思う)に代表される,「ロボット細工の動物」が非常に大きな意味を持つギミックとして利用されている。SeamanやAIBO,ファービーやNintendogsなど,電気ペットに事欠かない現代を顧みるに,ディックが1968年に描いたビジョンの鮮烈さに驚かされるが,映画には電気ペットが明示的に描かれるシーンはない。
 同様に,『アンドロ羊』で作品の中枢に位置するマーター教という宗教に至っては,映画には一瞬たりとも姿を現すことはない。『アンドロ羊』のクライマックスでは,マーター教というバックグラウンドに加えて,デッカードが丘を登るという極めて象徴的なシーンがあるが,「ブレードランナー」のどこを見てもそんな丘はないのだ。……まあ,あったらあったで,無用な敵を作る可能性が高いから排除したんじゃないかとも思うが。

 一方「ブレードランナー」で描かれるアンドロイド(レプリカント)は,原作よりも圧倒的に人間味に溢れている。人間味とドラマ性に溢れすぎていて,「ブレードランナー」を見た人の10人に6人くらいまでは,「この映画の主人公は誰?」と聞かれて,ハリソン・フォード(デッカード)ではなく,ルトガー・ハウアー(アンドロイドのロイ・バッティ)と答えるに違いない。実際,クライマックスで場を圧する存在感を放つのはルトガー・ハウアーであり,ハリソン・フォードはその足元に物理的にぶら下がっているだけだ。いやもちろん,情けない格好でぶら下がっているだけで観客に充分な印象を残すハリソン・フォードのことも,評価すべきだとは思うが。
 また,「ブレードランナー」で最も印象的なセリフを挙げよといわれれば,屋台の店主とデッカードが交わす「二つで十分ですよ」問答と,ロイが言い残すタンホイザーゲートのくだりであろう。『アンドロ羊』に,そんな台詞はまったく存在しない。

 であるにもかかわらず,『アンドロ羊』のファンの多くは,「ブレードランナー」が『アンドロ羊』の映画版であることを認めている。それはなぜか?
 あくまでも私見だが,「ブレードランナー」は,『アンドロ羊』にディックが込めたテーマを,『アンドロ羊』の世界を想起させる演出の範囲内で,完璧に描ききったからではないだろうか。『アンドロ羊』が提示した「人間が人間であるために必要なことは何か」という真摯な問いを,SFのギミックを用いて愚直に正面から問い詰めていく,その過程と構造が実にディック的であり,『アンドロ羊』的であったからこそ,「ブレードランナー」は『アンドロ羊』の映画版であり得たのだ。
 言うまでもなく小説と映画は異なるメディアであり,どうしたってそれぞれ得手不得手がある。「ブレードランナー」は,映像の持つメリットとデメリット,そして何よりも可能性を充分に理解したうえで,映画というテクニックと文法に則って『アンドロ羊』の解体/再構築に成功したといえるだろう。

 そうした作品がごく少数であることを考えれば,「メディアを越える」という行為がいかに困難であるかにも,思いを致さざるを得ない。登場人物や世界の名前,作中で用いられるギミック,背景設定やストーリー展開,セリフのやりとり,あるいはテーマそのものを右から左に持ち越しただけでは,それは無残な「原作モノ」の荒野に,新たな屍を転がすだけの行為になりかねない。それが「原作モノ」の難しいところでもある。
 多くのクリエイターがその問題点に気付いていながら,なおも単なる劣化コピーが生産されてしまう背景には,原作モノを作るに当たって,場合によっては「どのような作品にするか」にまで,原作者や版権管理サイドの意向が入り込むという現実もある。

 ベックの芝村氏がCEDEC2007で「2000年代に入ってから,ゲームをアニメにしたときの成功例は多い一方で,アニメをゲームにしたときの成功例は減っている」と語ったが,これは要するに,2000年代に入ってから,多くの場合アニメのバジェットおよびプロジェクトの規模が,ゲームのそれをしのいでいることの反映ではないかと,筆者は考えている。より大きな予算を持った,より大きな会社のほうが,より作品を自由に解釈する余地を与えられるというのは偽らざる実感であり,それを逆転させるには,関係者のどこまでも強い熱意が必要だ。
 コンテンツの消費速度が上がった昨今,クリエイターは次の作品を作るため常に多忙であり,他メディアでの展開を志す別のクリエイターとじっくりと話し合う時間がとれることは,それこそ個人的なつながりでもない限り,めったにない。芝村氏の発言は,最近のクリエイターにはそこをなんとかする情熱が欠けているのではないかという指摘として見た場合,まったくもって正論であろう。

 そうした制作現場の生臭い話が現実としてある一方で,「ブレードランナー」という作品は現実に誕生し,高い評価を受けた。多少困難な条件があったとしても,必要な努力を惜しまなければ,たどり着ける領域は存在する。またそれが本当に優れていれば,どんなにアバンギャルドなものであろうと市場は受容する――これこそが『アンドロ羊』と「ブレードランナー」の例が語る,最も重要な示唆なのかもしれない。

 

ここはいっそ,映画制作をゲームに

って,そりゃ「MOVIES」でんがな!

 

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■■徳岡正肇(アトリエサード)■■
当サイトでは連載「ハーツ オブ アイアンII 世界ふしぎ大戦!」をはじめとして,Paradox Interactive作品を扱った一連の記事でお馴染みのライター。版元/編集プロダクションの一員として,本を書く側でもあるわけだが,この人の読書傾向も一筋縄ではいかない広がりを持つ。最近読んだ本の話題が,最近プレイしたゲームの話題に劣らず危険な匂いを漂わせているといった感じで,例によってそれを「どこまで出すか」が課題だったりする。
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